2011年04月27日

本当の悪から足を洗うこと、本当の悪の戒律を無視することに、罪悪感はいらない。

あなたは、自分が自分を刑務所に入れたことを綺麗サッパリ忘れている。自分の意思で神法違反をしたことを忘れているから、自分が自分を裁いた裁判官であり、自分が自分の刑期を決めている刑務官(神)であることに気づいていない。自分が自分の違反を清算すれば、刑務所が娑婆に変わる。刑務所から出ればそこは天国であるが、神法違反の刑務所は死んでも消えず、次元を超えて存在する。

神法違反を清算しない限り、自らが刑務所を作り続けて、その中で、できない自由を求めて彷徨い続ける。罪を清算(差し引きゼロに)しなければ、永遠の天国には出られない。もし、逃れられない罪や誰かが与える罰、神の裁きというものがあるとすれば、現代社会を作り出した歴史の源の神を倒さない限り、人類は永遠に天国を体験することはできないことになる。

魔釣りの神の裁きは、自称「絶対権力者」の神の気分次第であり、神の言うことを聞けば死なないが自由はなく、言うことを聞かなければ命はない。言うなれば、おのれが死ぬか、最愛の者を殺すか、どちらか選べというのが、魔釣りの神の踏絵である。魔釣りの神、言い換えれば、世の黒幕は安泰である。それはそのまま、魔釣りのアヤマ知の現代社会での究極の場面の選択(脅し)であり、自己犠牲か、自己保身か、の選択を迫られることになる。死ぬのはいやだが、誰かを殺すのもいやだ、と思っていれば、脅した相手に服従するしかないのである。自分が死ぬか、誰かを殺すか、脅した相手に反旗を翻すか(それは、自らの死を選ぶのと同じである)の自由意志の選択があるようで、実は、一つの道しか用意されていないのである。罪悪感を持っている限り、たとえ死んでも魔釣りの神の支配する世界の奴隷から自由にはならない。

魔釣りの神は、真釣りを外すことに罪悪感は持たない。続きを読む
posted by oct49 at 14:27| 京都 ☀| 法/宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月26日

「裁く心」が真釣り外しを進める根源である。

法制とは、為政者が世界を支配するために創ったシステムであり、現代社会の裏の裏を操っている影の支配者、世の黒幕は法律など守っていない。現代社会の裏舞台、「一般人」には思いも及ばない世界では、着々と支配計画が進行している。「獣」の響きに囚われた者が創ったシステムで、「人」の天国を創り出すことはできない。実際は、法律で規制すればするほど無法地帯と化し、自由を制限するほど共食いが激しくなるのである。法律が必要になった大元を直さない限り、犯罪の撲滅という目標は果たされることはない。

本当の天国に「法律」は存在しない。神法違反の「犯罪」である魔釣り自体が存在し、その「犯罪者集団」の中で罪の裁き合い(神が裁いていないものを、人が裁くこと=神が許している行為を、人が禁じること)ができるのは、「神法違反の罪」そのものは、まだ裁かれていないということを意味している。簡単に言えば、神が許しているからこそ裁けるのである。言うなれば、罪人社会の中で、罪の擦り合いが公然と行われているのであり、形の上の被害者が加害者を抹殺して自由を得ようとしているのである。罪や悪の本当の意味を知らないから、自らが犯した罪を棚上げし、他人を裁かないことが非常識であるかの如く、他人の罪を責めることが当たり前の常識として闊歩している。

神法から見れば、全員が「罪びと」であり、他を裁く資格のあるものは誰もいない。今の世でも、法律違反を犯した者が他人を裁く資格がないのと同じことで、これは、神法にも適用される。神法を破った者がその罪を認めないとすれば、その者は永遠に自由にはならない。「裁く心」が真釣り外しを進める根源である。

有限の中で無限の略奪はできない。無限の中に有限を作り、その有の奪い合いをしているなら、必ず終わりが来る。言い換えれば、自分が自分を奪う時が必ず来るということである。違反を認めないならば、神法に違反した者は自らを消して神法違反を清算することになる。悪を裁けば裁くほど、自らで自らの首を締め続けることになり、最後は窒息して息き絶える。自らが違反を認めて清算しない限り、あなたが天国に戻ることはありえない。自らが違反を清算しないならば、国際貢献も、神の手伝いも、全く意味はなくなる。

まずは、あなたの神法違反を清算することが先である。それが同時に世のため人のためになっていくのである。世のため人のため神のために生きたいならば、足元を正すことである。神法は、生死時空を超えた自業自得の掟であるから、これが一体何を意味するのかは、わかるはずである。

神はすべてを産み出す。神の持つ響きが世の現実である。世の現実が神の持っている響きである。自=余=世=地。自らの現実はすべて自らが産み出したものである。自らの世界は自分そのものなのである。すべての現実を作り出す、その自分という神が嘘を持っていれば、幻の世界を実体だと思い込み、自ら進んで嘘の世界を進めた末に、嘘が存在できない世界が来れば、自らもろとも現実は消滅する。これを空想だと言うならば、それは、幻の世にしがみ付きたいがための詭弁であり、自由を自ら捨てることを意味する。すべては自業自得の仕組みであり、自らが自らの自由を放棄するのであるから、誰も助けてくれることはない。自らが自らの世界をどうするのか、生きるか滅ぶかは自分次第である。

大きな視点から見て「何の罪もない者」はいない。本当の「罪」(神法違反)は、自ら清算しない限り、時空を超えて積み続けることになる。自らが自覚して罪相応の苦労を堪えて清算しない限りは、罪は消えない。罪が消えなければ、天国はない。魔釣りの積を摘まなければ、自らの天国の花は咲かない。

「罪人」同士の裁き愛は、大きな視点から見れば、パンドラの箱の中での相対的力学による封印合戦であり、自らが自らを裁き続けて自殺をするゲームの中の生き残り競争である。最後は全員が自殺して、そのゲームは終わる。実は、その箱の中そのものが「刑務所」であり、その中でボス争いをしている、「猿山の権力闘争」でしかない。その猿山を見ている人間に当るのが、神であるが、その神の世界も、神の猿山で同じことをしている。そのすべての猿山の権力闘争を見ているのが、元つ大神である。真釣りに戻らない限り、猿山の権力闘争からは死んでも抜けられない。人類の先祖は猿だと言っているが、猿と人類の祖先が共通ならば、人類は猿である。戦っている人間は、外見は「人」であるが、中身は「獣」である。猿を祖先とする中つ神の世の「獣」は、元つ神の「人」の世には生きられない。

神法違反を許す仕組みは期間限定である。いつまでもできると思うなら、それは、自らの違反をそのままにして、幻の世界の快感に浸り続けたいがための幻想である。いつまでもそれを続けても構わないが、本当の命を自ら捨てる時が必ず来るという事実は動かない。

命そのものが自分であり、現実であり、世界そのものであり、神法違反の作り出すシステムでは、「天国」は絶対に実現しない。実現するというならば、まさに、「荒唐無稽」な「誇大妄想」、万古末代、永遠に実現することはあり得ない究極の幻想である。本当の「不老不死の命」を得たいのならば、本当の天国で、二度と枯れることのない永遠の生を生きたいというのならば、まずは今ここで一端立ち止まって、今の自分が何をしているのか心底考えてみることである。
posted by oct49 at 06:31| 京都 ☀| 法/宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月24日

あなたが持っている概念や言葉は、すべて作られたものである。

一つ大きな視点(真釣り)から見れば、魔釣りの世の法則(常識、道徳)は自らに返ることになる。

魔釣りの言う悪は悪ではない。自らの外に見える悪は、真釣りの世から見た自らのことである。真釣りには善悪はなく、魔釣りの言う悪は、実体のある悪ではない。言うなれば、真釣りという絶対善が許した絶対悪の中に善悪のハタラキがあるだけである。悪の裁きあいは、真釣りという神法に違反した者を魔釣りの響きを作って真釣りに戻す仕組みの中で通用する仕組みに過ぎない。

真釣りしかない世で真釣りで生きれば、何の不都合もない。真釣りに違反すれば、不都合が現れるようにしてあるから、不都合があるなら、それは、自らの真釣り外しの現れである。自らが『何も悪いことはしていない』ならば、自分以外の誰かが自分を不都合にしたことになるから、その誰かを悪と呼ぶことになる。

「善」「悪」、というのは、作られた思想であり、善(悪)という言葉も概念も元々は存在しない。

悪とは何なのか。善とは何なのか。あなたが持っている概念や言葉は、すべて作られたものである。悪はどこにもない。真釣りの世には苦はない。あなたに苦や不都合があるならば、無いものを持っているならば、それは、あなたが真釣りに違反した証そのものである。

あなたがそれを認めないならば、真釣り外して自分だけが滅ぶのみである。
posted by oct49 at 06:24| 京都 ☀| 法/宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月30日

悪を裁くのは、魔釣りを生かすための茶番である。

真釣りは真釣りである。魔釣りは真釣りには影響しない。子は親の鏡であり、その子は自らの映しであるから、子が親を殺す状況になるならば、オウム教団を非難する現代社会こそがオウムの産みの親である。

オウム事件の謎は、現代社会の思想の中に答えがある。オウム教団の思想を調べても何も答えは出ない。オウムを許せない自らの中にオウムを産み出した源がある。従って、オウムを非難できる者は一人もいない。真釣りなら全く影響ないからオウムを裁くことはしない。オウムを裁くならば真釣りではない。真釣りでない社会は魔釣りで滅ぶ。

教祖を死刑にしても何も解決しない。瞑想が修行である宗教の教祖にとって、独房は瞑想室であり、死は解脱の到達点である。まさに、彼にとっては都合の良い環境を与えられたことになる。だからと言って、大量殺人の首謀者を懲役刑にすることは、極悪人を目の前に置き続ける堪え難い状況であり、善悪は絶対価値ではなく、その善悪と生死を超越した存在に対しては、死刑は救済となり、無罪にすれば、「善人」の側が危機感を感じながら生きなければならないというジレンマを抱えることになる。

『何の罪もない人間は一人もいない』それが、真コトの真実から見た真理である。

本当の真実の前には、法の裁きという概念と裁判システムは無効となる。善悪を超えた犯罪には、刑法は無力と化してしまう。現代社会の罪概念や法理念とは全くの逆さまであるから、死刑が罰にならないという自己矛盾を露呈することになる。

実は、悪を裁くこと自体が悪なのである。『それはおかしい』というならば、オウムを裁き続ける堂々巡りの中に戻ることになり、謎が解けないまま、自らが魔釣りと共に滅ぶ。悪を裁くのは、魔釣りを生かすための茶番である。
posted by oct49 at 06:30| 京都 ☀| 法/宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月26日

「真釣り」は絶対不変の神法であり、天地自然を生かすハタラキである。

『国民の意見を聴いて政治に反映させる』『消費者のニーズに合わせて製品を開発する』と言うが、それは、自らの存続のための方策であり、相互依存の世界だけで通用するものである。「真釣り」は絶対不変の神法であり、天地自然を生かすハタラキである。本来、法とは、人民が合わせるものである。しかし、その法の基が真釣りでないならば、いかなる法を定めようとも自由も平和も実現しない。『何のために政治をしているのか』『何の目的で法律を定めるのか』実際は、王政でも民主制でも、獣のピラミッドの支配の制度であり、主権が誰にあるかの違いで、争いを産み続ける世界である。蛇がアタマを交換しても、結局は蛇のままであり、有限の世界だと言っている限り、天国は実現しない。

真釣りは永遠不変の神法である。それに基づいた王が治める世界がミロクである。人類の歴史の王政と九分九厘同じだが、足場にあるものが違う。これを独裁だというなら、勝手にすればよい。その時が来てどうなっても自業自得である。神の掟を外し続けた末の現代日本から神の掟を見れば、「悪魔の悪魔」の宗教に見えるが、それは、自らの鏡である。本当の天国とは全くアベコベの世界を「善(正)」と思えば、それに基づくいかなる制度も、目指す理念は実現できない。世の破滅は避けられない。元つ真釣りのミロクの世は、生死一如、時空超越の世界であるから、今ここで神法違反をしているならば、例え死んでも同じことであり、今のままならば、この世にもあの世にもどこにも国を作る場所はなくなる。永遠の滅びである。

本当の天国は復活する。そこにあなたがいるかどうかは今ここの選択にかかっている。光を一つ上げる、とは、魂の一生という思考ですべてを見ることである。今でいう一生は、魂の一生では、幼稚園の入学から卒業までの体験に過ぎなくなる。あなたという身魂は、まだ一度も死んでいない。今回の大祓いが、永遠の生死の分岐点である。
posted by oct49 at 08:54| 京都 ☀| 法/宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
プロフィール
名前:長谷章宏
職業:トータルライフコンサルタント
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