2011年04月30日

民主主義とは、相互依存、相互呪縛のシステムである。

民主政治は、自由の仮面を被った、リーダー不在の利己主義集団の集団独裁統治である。構成員が奪い合いをしていなければ、集団も奪い合いにはならない。奪い合いをしていれば、社会は戦いになる。戦いの世界で自由を確保するには、支配権の奪い合いが必然となる。王政だろうが、民主制だろうが、根底にある思想は変わっていない。権力闘争の世界である限りは、どんな策をもってしても、全員が平和に暮らせる世界を創ることは不可能である。

人類の歴史が始まって以来、為政者は、本気で平和な世を作ろうなどとは思っていない。もし、本当にそう思っているならば、権力闘争はしない。そもそも、魔釣りの世界自体が平和を壊した世界であるから、真剣に世界平和を訴えたとしても、それは実現しない。自らの大元の取り違いに気づかない限り、実現しない幻想を追いかけ続けるだけである。

社会システムの裏に流れる思想を見れば、その社会の構成員の持っている思想がわかる。思想が変わらなければ、結果である社会は変わらない。社会は思想の顕現である。現代社会にある思想の根底にある大元の思想を引っ繰り返さなければ、言い換えると、魔釣りをそのままにして表面上の政治理念をどう変えようとも理想国家の現実はありえない。

集団という概念は、略奪の世界を効率よく操作するための道具であり、集団を統治するという思想は、戦いの響きを持つ個人の集まった社会を支配するための戦略である。その世界では、誰が指導者になろうと、支配者と被支配者の権力闘争である限り、絶対に平和な社会は実現できない。

民主主義とは、民が政治家を操って、自らの思いを果たす、集団逆統治の仕組みである。政治家は民の顔色を伺いながら自らに利益のある民の勢力と手を組んで自らの理念を実現しようとし、民は投票という殺生与奪の権をちらつかせて政治家に自らの思惑を実現させようとする、相互依存、相互呪縛のシステムである。政治家は、国家権力を操れる分、優勢ではあるが、双方が相手に命を預けているから、どんな政治理念であろうと、どの政党が政権を取ろうと、政民どちらも永遠に自由にならない。その間で生き残りを図る官も結局は、政と民の動きに左右されるから、最後は、全員丸潰れである。

個人の自由、権利と義務、民主化神話、男女平等の思想にどっぷりと漬かっている先進国の市民は、王制に戻ることを望まない。王政から民主制へと世を進めた末の現代社会の大衆は、過去の政治支配のトラウマから、過去の政治システムに戻ろうとはしない。民主化することが世界平和の最善策だと思い込まされているが、実際は、自らの存在の源である神から主権を奪い取ったに過ぎず、神を闇に葬っている大衆が主権者であると主張しても、平和などできるはずがない。民主主義は、最善のシステムなどではなく、世界支配の野望を成就するためのシナリオの最終段階に過ぎない。好き放題に振舞う大衆同士の争いを煽って混乱を作り出し、秩序を崩壊させることによって、自らを導いてくれるリーダーを大衆が要求するという形で、大衆の同意の上の独裁者による王政に戻すためのステップである。大衆自らが求めた独裁者は、大衆が選んだ独裁者であり、自ら選んだ限りは、従わない者は反逆者として処罰できる。

相互依存の略奪の歴史の魔釣りによる政治システムは、民主主義によって秩序が崩壊し、それを収拾するためという名目で権利が奪われてアメとムチの支配が完成し、独裁政治の復活となる。そして、王制、王政、神政の復活へと進み、最終的には、魔釣りの最高神が世を支配する神の世界へと戻る。聖書の世界が現実となる。
posted by oct49 at 09:14| 京都 ☁| 政治/宗教/法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
プロフィール
名前:長谷章宏
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